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 特別講演

 「<心の理論>の発達−−幼児期の心の理解の豊かさをさぐる」

京都大学大学院教育学研究科 子安 増生

 今日私がお話ししたいことは、4歳から6歳になると、幼児はいろいろな形でそれまでとは違った世界、とくに<心の世界>を形成するということです。私は、ここ9年ぐらいそのようなテーマに関心をもっています。それ以前はやはり同じようなテーマですが、子どもの視点の理解、他者視点から物を見るというのはどういうことかということをやってきました。最近ではもう少し突っ込んで、「人の心の世界を理解するとはどういうことなのか」というテーマを中心に研究しています。

 私たちの住んでいる世界を、簡単に二分できるかどうかはわかりませんが、<物の世界>と<心の世界>というように分けたとします。物が物理的に運動したり、あるいは法則やいろいろな規則にしたがって動くということを、私たちは理解しています。それから、心も基本的には物質的に裏打ちされた物の動きではあろうかと思うのですが、私たち自身がそれを知覚したり予測したり説明したりするときには、物の動きとはまた違った動き方として考えます。<物の理論>が物理学やその他の自然科学的な学問であるとするならば、心についても、<心の理論>、心の科学というものがあるのではないか。そのようなことを私たちが認識する能力として、片方は物に関するテクニカル(技術的)な知能、もう片方は心に関するソーシャル(社会的)な知能がある、というわけです。

 物のそのものとしての動き、あるいは物をどう理解するかということに関しては、スイスのジャン・ピアジェという発達心理学の大家が1980年代ぐらいまでに大変重要な仕事をして、その点についてはかなりわかってきています。しかし、もう一歩突っ込んで「物を理解すること」と「心を理解すること」の関係はどうかということを中心に考え始めたのが、ピアジェが亡くなってからの1980年代以降の発達心理学といえます。<心の理論>の研究は、1978年のプレマックという人たちの論文が最初ですが、大体1980年代以降の20年間ぐらいにかけて、急速に進んできた分野ではないかと思われます。

 今、<物の世界>と<心の世界>ということを言いましたが、それを少しわかりやすく説明するために、新聞に載っていた悲しい事件を例に取ります。

 京都府の城陽市というところで、この事件は起こりました。母親が4歳の長男、2歳の長女、生後2か月の二女の3人の子どもを自家用車に乗せ、買い物に行きました。あらかた買い物をすませて、もう一軒別の店に寄るときに、5分ぐらいで終わる簡単な買い物なので、子どもたちを車の後部座席に乗せたままにしておいたのです。ところが、後部座席から出火し、煙と火が出て、それに気が付いたお客さんが店の人に知らせ、消火器で消火に当たりました。そして、そのときには母親も駆けつけて、子どもたちを助け出そうしたのです。

 しかしながら、小さな子どもたちは、大やけどを負って、二人の子どもが病院で亡くなりました。もう一人の女児も、今はどうなっているかわかりませんが、その報道の時点では重体でした。そういう大変痛ましい出来事がありました。あとで警察が検証すると、後部座席にマッチの箱と燃えカスが10本ぐらいあったそうです。子どもが火遊びをして、それが火事を引き起こしたことがわかりました。


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 この出来事を見て、これはギリシア悲劇的な事件だ、と私は感じました。ギリシア悲劇というのは、性格悲劇ではなくて状況悲劇です。ですから、母親の性格が悪いとか、あるいは子どもの性格がよくないとか、そういう性格の相克が原因ではなくて、もがいても避けられずに、たまたまそういう状況になってしまったことが悲劇を生む構造になっています。おまけに、ギリシア神話では、プロメテウスが天上から火を盗み出して地上の人間に与えたために、プロメテウスも人間もその後ゼウスから手痛い復讐を受けます。ギリシア神話以来、火は人間にとって危険なものであり続けてきたのです。

 さて、この駐車場火災の事件について、私たちはこの新聞記事から、いろいろなことを推論なり、推測なりをするわけです。例えば、燃えカスのマッチがあったのなら、誰かがマッチに火をつけたのだろう。火をつけると当然危ないですし、焼け残りをそのまま置いておけば火災が発生します。火災が発生したら、狭い車内ですから、炎と煙が満ち満ちて、そして大変なことになる。当然消火もしなくてはいけないし、中に人がいれば救出もしなくてはいけない。このような物事の展開、そのような推論に基づいて、私たちはマッチを10本も次々に燃やしたら危ないではないか、ということがすぐわかるのです。これらは、<物の理論>に基づいて私たちが推論をしているということになります。

 他方、この事件を聞いて、「お母さんはすぐに戻るつもりだったんだなあ、気の毒に」。「でも、子どもは興味を持ったマッチを何本も何本もすっては次のをする、ということをやったんだろうな」。あるいは、「火事が起こってこの子たちは非常に恐い思いや、熱い思いをしただろうな、可哀想に」。あるいは、「それを知ったお母さんはパニック状態になっただろうな」。あるいは、事件からもう1週間が経ちますが、「ちょっとした不注意が大変なことになってしまった、とたぶん後悔の念に苛まれているだろうな」とそういうことを私たちは推論します。

 そうすると、初めに述べた「物」に関連して起こってくる推論と、それから子どもを含めた人間の「心」に対して私たちが思う推論とは違う性質のものである、ということがわかるわけです。物の方が流れとしては論理的に、あるいは現象の連鎖として、確定的に理解できます。他方、心の方は推論によるシナリオは描けても、実際には全然別のタイプの母親かもしれないし、子どもたちもどんな気持ちでこうなったかわからない、という部分もあるわけです。そういう意味で<物の理論>と<心の理論>とをまず分ける必要があり、さらに私たちがそれぞれに関して推論するプロセスについて検討する必要があります。

 ところで、今私が説明している話の中で、3人の子のうち、どの子がマッチを使ったのかを、みなさんに今ここでお尋ねしたら、たいていの人は一番年長の4歳児だと思われることでしょうね。たぶんそうだと私も思います。では、なぜそう思えるのでしょうか。それは、私たちが、子どもの能力や子どもの考え方について、ある程度推論ができるからです。

 今、子どもの生活の中にマッチというものはどのようなものとしてあるのでしょうか、この自動車の中になぜマッチ箱があったのでしょうか、ちょっとわからない面があります。しかし、マッチをすって起こる変化が大変興味深いものであることを、私たちは子どもの頃から経験しています。ですから、マッチをする能力があって、そして火遊びを楽しむ能力があれば、子どもはマッチをすれば火がつくという、ある意味で一次的な結果は予測できるでしょう。しかし、どんどんマッチをすっていったら火事を起こすという二次的結果は、4歳児にはなかなか予測ができません。また、火事が起こったときに対応ができません。たぶん後部座席は、チャイルドロックがかかっていて、幼児には開けられないようになっていたのでしょう。けれど、前部座席に回ったら開くはずなので、そういうことがたぶん幼児にはわからなかったんだろうと思われます。

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 この「幼児にはわからなかった」というのは<心の理論>ですが、自動車がどういう状態になっていたかを推測するのは<物の理論>です。そういう事柄を、私たちは内容を区別しながら理解しているのです。

 また、この事件は、ある意味で「4歳児だったから」起こったともいえます。ずっと幼い乳児だったら起こらなかったかもしれないし、もっと年上の大きな子がいたら、別の対応が可能だったかもしれない。ですから、ここに4歳の子どもがいたということは、この事件を理解する上で一つの大きな要素であると考えることができます。

 3年保育で子どもたちを幼稚園に通わせるお宅も多いと思いますが、3年保育では最初の年は大半の子が3歳ですね。私たちは、幼稚園に子どもが上がる時期になると、本当に3歳の子が他の幼稚園児と一緒の学校へ行って、ちゃんとやっていけるのだろうか、と心配になります。しかし、4歳ぐらいになりますと、そういう心配はあまりなくなってきて、別の面の心配がまた起こってくることになります。そうすると、私たちの日常経験的にも、3歳から4歳というのは、かなりいろいろな意味で変化が感じ取れるわけです。

 ピアジェは発達の時期を、誕生から2歳ぐらいまでの「感覚運動期」、2歳から7歳ぐらいまでの「前操作期」、7歳ころから11歳ぐらいまでの「具体的操作期」、11歳頃から15歳ぐらいまでに成立する「形式的操作期」と、4つの段階に分けました。このうち前操作期は、4歳の前後でさらに二分されます。4歳というのがいろいろな意味で転機であるということが、<物の理論>の側からも言われていることなのですが、<心の理論>の研究においても4歳がひとつの大きな転機であるということを、いくつかのデータが示しています。

 先ほどの事件に戻りますが、あの4歳児は、マッチをするのが面白いからすったと考えられます。つまり、この子どもは誰かがマッチをするところを見たことがあるのでしょうね。火が起こると、その変化が面白そうだということを知っているのです。マッチをする前の状態で、目の前にない火が起こることを思い描く。そういった表象的な能力というものは、現にあるものを知覚するのではなくて、今目の前にはないものを心の中に思い描くということです。そういう表象能力の発達と発達的な変化全般とのかかわりというのは、昔からいろいろに言われております。

 例えばピアジェは、物の永続性、オブジェクト・パーマネンスという言葉を使いました。赤ちゃんに物を見せると、その物に対して興味を引きつけられます。ところが、それをパッと隠してしまうと、最初のうちはそれでおしまい、つまり最初から何もなかったということになりますが、そのうちだんだんに、興味があるものが隠されると探したり欲しがったりと、物を求める行動を起こすわけです。それは、物というのは見えなくなったら、それでおしまいではなくて、見えなくなってもどこかにあると考え、それを表象としてもつ、ですから、それを欲しがるという行動がいろいろ出てくる、というわけです。

 あるいは、ジョイント・アテンションの研究です。誰かがある方角を見たときに、それに追従して物を見る。これは、ジョイント・ビジュアル・アテンションという、視覚的なもので注意を共有することです。これは、イギリスの心理学者ジョージ・バターワースの研究テーマのひとつです。

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 バターワースの研究では、6か月から1歳半ぐらいの子どもと母親とを一緒にして実験をします。母親が見る方向を赤ちゃんが追従して見るかを調べてみると、初め赤ちゃんにとっては、前方の物に対する追従反応がある程度あるのですが、赤ちゃんにとって後方のものを振り返るジョイント・ビジュアル・アテンションは非常に少ないのです。それが1歳半になるまでの間に、後方へのジョイント・ビジュアル・アテンションがだんだんできてきます。これもやはり、表象の発達と関わっているのだろうと思います。

 このように、見えないものに対して関心をもつ、見えないものを心の中に思い描くという表象能力が、だいたい1歳頃、心理学で言う乳児期の終わりまでに、はっきりと見られるようになってくるわけです。そういう表象能力の発達と<心の理論>との間に何らかの関係があるのではないか、と私たちは考えています。

 本題の<心の理論>というところに入っていきたいのですが、これは先ほど申しましたように、1978年にプレマックとウッドラフという2人のアメリカの霊長類学者が「チンパンジーは、心の理論をもつか?」という論文を書きまして、それが研究の出発点になっています。この2人は、プラスチックの形を単語のようにして並べて、何か欲求を表現するという彩片言語というものを使って、サラという名前のチンパンジーにコミュニケーションをさせました。サラだけに限らず、人間に飼われていて、そして人間とコミュニケーションをしているチンパンジー、あるいは他の霊長類動物を見ていますと、非常にかしこい行動をするし、そのかしこい行動の中に自分以外の個体に対しての心の理解というのが含まれているのではないか、と研究者たちは推測しているわけです。

 彼らは、<心の理論>をもつという言葉を使って、そのことを説明しています。心にはいろいろな状態がありますが、ある特定の心の状態を自分または他の人に帰属させることができるのです。なおかつ、最初の出発点で、<心の理論>は、他人にも向かうし、自分にも向かうとされています。非常に怒っている人に対して、「そんなに怒らないでよ」と言うと、「自分は怒っていない」と言って怒っている人がありますね。それは、自分が怒っているという心の帰属を自分に対してできてないことになります。そういった「この人は今こういう心の状態にあるのだ」という心の状態の帰属を<心の理論>と呼ぶわけです。

 プレマックたちは、論文で「インピュート」という動詞を使っていますが、この言葉は私たちにはあまりよくわかりません。「インピュート」は、「アトリビュート」と似た言葉ですが、こちらは帰属理論や社会心理学などでよく使われます。帰属理論の「帰属」という意味の「アトリビュート」という言葉とこの「インピュート」という言葉は、ほぼ同義と考えていいということを、私はプレマック先生から直接聞きました。他のいろいろな人の動きや動物の動きを見て、そこにこういう心の状態があるのではないか、ということを推測するという意味です。それを、<心の理論>をもつ、と言っているわけです。

 <心の理論>をもつとなぜいいかというと、それは次の行動の予測がしやすくなるからです。「この人は怒っている」と思ったら、あんまり近づかないほうがいい、冷静になったときに近づいた方がいい、となります。そういう適応的な意味があります。プレマックたちは、他の人がもっている目的、意図、知識、信念、思考、あるいは疑い、推測、ふり、好み、こういったものが理解できるならば、それは<心の理論>をもつものとみなしました。

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 私たちは、生きていく上で、常に<物の理論>というものを利用しながら生きています。例えば、重力がはたらいているところには、不安定な物の置きかたをしてはいけないことを、私たちは<物の理論>に基づいて知っています。同様にまた、私たちは少なくともある年齢以降、<心の理論>をもって生きているのではないかというわけです。

 この考え方は、もともと霊長類研究から始まり、この10年、20年の間に、霊長類動物たちが、野生のものであれ、あるいは人間に飼われている捕獲されたものであれ、いろんな形で自分以外の個体の心を理解しているかのような行動を示している(解釈は非常にむずかしいのですが)、という報告がたくさん出てきました。

 例えば、後で図をお見せしながら2つの観察例について説明したいと思いますが、オーストリアのハンス・クマーという霊長類学者は、ヒヒの研究をしていて、そのヒヒが他の個体に気づかれないように、こっそりと行動する、ということを明らかにしました。一種の欺き行動ですが、そういう観察例を示しております。それから、スペインのファン=カルロス・ゴメスという研究者は、ゴリラの研究の中で、物の扱い方と心の扱い方とを区別するような観察事例がある、ということを報告しています。

<図1>

 まず一つめの例です。ここにヒヒのメスがいます。他にはいわゆる「アルファ・メイル」、かつては「ボスザル」と呼ばれた、群れの中で強いオスがいます。若いオスもいます。今このメスが若いオスに対してグルーミング(毛づくろい)という行動をしています。これはいろいろな解釈があると思いますが、基本的には愛情を交わす表現だと思われます。そしてグルーミングするというより、グルーミングさせることに意味があるらしく、それは「私はあなたに対して許容的ですよ」というメッセージなのです。いずれにしても、こういう事をボスザル(アルファ・メイル)が見たら、当然怒って飛びかかってくるはずなのですが、間に岩があるために、そのことがわからず、飛びかかっていかないわけです。

 2つの絵があり、似たような絵なのですが、左側の絵(a)は、このボスザルからは岩陰にはメスしか「見えない」という視覚的推測です。右側の絵(b)は、向こう側にはメスしか「いないと思う」という認知的推測をしています。このような細かい区別は今はどちらでもいいのですが、大事なことは、このメスは、ボスザルにわからないように、グルーミングという通常ならかなり手を動かす行動をこっそりと行ったのですね。つまり、ボスザルには何をしているのか「わからない」ように、ただそこにいるだけであるかのように見せかける行動をしたという観察事例です。これは、一種の欺きと言えますね。

 もうひとつは、ゴメスというスペインの心理学者の論文から借りてきたものです。ヴォルフガンク・ケーラーというドイツのゲシュタルト派の大御所の心理学者が若いころ、『類人猿の知恵試験』という題の本を1917年に出しています。これは、チンパンジーの心理学的研究の原点みたいな本です。チンパンジーは、非常にかしこくて、さまざまな問題解決行動をやります。そして、問題解決をするときには、試行錯誤でやるのではなく、ある程度「見通し」をつけて問題解決ができる、ということを調べたわけです。それと似たような状況を設定したのがこれです。

<写真2>

 ゴリラがいます。ここにドアがあります。ドアの向こうに行けば好きな餌があるのですが、掛け金がありまして、これをきちんとはずさないと向こう側に行けません。ところがゴリラは背丈が低いので、そのままでは手を伸ばしても届かない。そこでケーラー流にいくならば、この箱を前にもって行って、飛び乗って開ければよいという状況になっているわけです。ところが、ケーラーの実験と違うところは、ここに観察者もいるというところです。ですから、人間をも問題解決に利用することができるわけです。

<図3>

 4つぐらいの問題解決のパターンがありまして、1つ(左上)はケーラー流です。箱をもって行って、その上に乗って掛け金をはずす、という解決行動です。2つ目(右上)は、人間を押して行って、肩の上によじ登って掛け金を開けて、またドアを開けるという行動です。上の2つは、<物の理論>で理解できる行動ですね。右上の図では人間が介在していますが、人間は、押していきやすいもの、乗っかりやすいものという便利な「物」であるに過ぎません。この人がどう考えようと、おかまいなしですね。そこにいてくれるだけで助かる存在であるわけです。

 それに対して、下の2つは微妙に違います。両方ともアイコンタクトが大事です。掛け金の部分と人の顔とを交互に見比べるアイコンタクトをするのですが、一方(左下)は、どちらかというとかなり無理に引っぱって開けさせようとします。もう一方(右下)は引っぱっていない。ただ「何とかしてください」と相手の心に直接訴えかける方法です。ですから下の2つは、明らかに上の2つとは違って、人間を物としては扱っていないわけです。下の2つは、最初私もこの2つの違いがなかなかわからなかったのですが、やはり微妙に違っていまして、左下の方では人間はまだ便利な道具かもしれない。右下に至ってやっと、相手の心にはっきりと訴えかけていると言えるのかもしれません。

 ここまで説明いたしますと、自閉症の研究をされている方は、これは自閉症児の「クレーン行動」といわれる行動と似ているな、とお思いになったのではないでしょうか。自閉症児は、よくお母さんや保育者の手を、やって欲しいところへ持っていく行動をします。それがちょうどクレーンを動かしているように見えるので、クレーン行動というのだそうです。ゴリラも最初の段階の反応は明らかにクレーン行動に近い炙炙とかしてくれ」というような直接心に訴えるようなやり方ではなくて、「ここまで持っていったら、あとは動いてくれたらいいな」という願望だけで動いているのかもしれないということです。

 ですから、人以外の霊長類動物の研究で、彼らが心というものを何らかの形で理解して行動していることや、社会的な営みの中で社会的な知能をはぐくんできたし、それがさまざまな適応や行動に非常に大きなプラスをもたらしたことは事実ですが、それが人間の特に4歳以降の子どもの持っている社会的な知能と同等なのかというと、なかなかその判定は難しいと思います。まだ発見されていないのかもしれませんが、今までわかってきた部分でいうと、昔から、チンパンジーは人間の3歳ぐらいのレベルでとどまると言われています。どうもそれに近いところまでしか今までのところわかっていない、とプレマックたちは言っているのではないかと思います。

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 <心の理論>の発達研究は、霊長類学の研究に触発されたのですが、人間の子どもを相手にやるときには、当然考え方も方法論も違ってきます。それで、これはかなり人口に膾炙した実験方法になってしまったので、ご承知の人も多いかと思いますが、ジョセフ・パーナーとハインツ・ヴィマーというオーストリアの2人の心理学者たちが、1983年に「誤った信念」という課題をつくりまして、研究を進めました。

 パーナーは、先ほどの表象ということを正面からとらえました。パーナーによると、心というものを理解しているかどうかは、表象的に心を理解しているかどうかを調べることになります。そのためには、その人が思っている正しい表象と現実世界がうまく対応しているかということだけではなくて、誤った表象、つまりある人の思い込みとか誤解を、別の人が正しく認識しているかどうかを調べなくてはならない。ちょっと複雑になりますが、そういうことを言っているわけです。

 1980年代の前半ごろまでにわかったことをいくつかあげますと、誤った信念課題によって<心の理論>をもっているかもっていないかを規定するならば、3歳以下の子どもは、ほとんどもっていない。それから、4歳から6歳、パーナーの元の実験は7歳までやっていますけれど、4歳から6歳までの間に、この誤った信念課題の正解率がかなり上昇してきます。次の小学校1年生の健常児ならほぼ全員通過するということに関しては、私自身そのデータを持っています。公立の小学校で絵本形式で行った研究では、小学校1年生になったら、今からお話しする課題は、まずできるということです。それから自閉症の子どもたち、正常の範囲には達しなくてもかなり知能の高い、言語的な応答もできて、問題の意味がわかる、それから他の知能検査課題もかなり通過するといった子どもたちにも理解できない課題があることを、イギリスのバロン=コーエンたちは発見しました。それが誤った信念課題ということです。

<図4>

 この誤った信念課題について説明します。ここに2人の女の子がいます。仮に、「いずみさん」と「なつこさん」という名前にしておきます。いずみさんが人形で遊んで、人形をカゴに入れて出て行きました。その後、なつこさんがやってきて、人形を見つけてそれで遊んで、箱にしまって出て行きました。いずみさんが戻ってきたときに、「人形はどこにあると思っていますか」とか、「人形でまた遊ぼうと思いましたが、どこを探すでしょうか」とか、いくつか聞き方があるのですが、いずみさんの心の内容を尋ねます。子ども自身は、人形はもう今はカゴになく、箱に入っていることを知っているわけです。自分の現実の知識がそこにあります。それに対して、このいずみさんという登場人物は、いまだにカゴの方にあるだろうと推測しています。つまり、ここで知りたいのは、幼児は自分が思っていることと、物語の登場人物という他者の思っていることとのズレがわかるかどうかです。いずみさんのもっている表象は、状況が変わったので誤表象になっていますが、その誤表象の理解ができるかどうかということが、<心の理論>を測る重要な指標になるということを、パーナーたちは言ったわけです。

 そして、3歳までの子どもたちに尋ねてみると、そもそもこういった問題をやってもらうこと自体難しい面があるのですが、カゴではなくて箱の方を探すだろうと言ってしまいます。そういったことが、1980年代の前半までに、いろいろな実験でわかってきたわけです。

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 今ご説明した誤った信念課題に対して、1990年にデボラ・ザイチックというアメリカの女性の心理学者が、これと似たような同型の課題で違った能力を測るテストを考案しました。それを写真課題といいます。

<図5>

 私の調査で用いた図で説明します。兄と弟のきょうだいがいて、母親が壺をつくる仕事をしているのですが、できた壺の写真を子どもたちに撮らせて保存しようとしました。兄が壺を下駄箱の上に置いて写真を撮りました。その後、今度は弟に時計と壺を取り替えるように頼み、弟が時計と壺を取り替えます。今、下駄箱の上には時計がある状態です。そして、子どもたちに「カメラのフィルムには何が写っているか」と聞きます。

 もちろん、フィルムには元の壺が写っていることになりますね。同型というのは、人間がある経験をすると、記憶表象として、自分は人形をカゴに入れたのだから、カゴの中に人形があるという表象が残ります。他方、カメラは何かを撮影すると、フィルムの上にその表象が残るわけです。その残った2つの表象は、それぞれ今は現実と対応していません。現実と対応しない表象を推測させるという意味で、この2つは同型の課題と言えます。実は、厳密に言いますと、人形の方は同じものが場所を移動する課題でした。私はこれを場所が変わることで「場所の課題」、壺の方は物が時計に変わることで「アイデンティティの課題」と呼んでいて、両者を区別すべきではないかと思っています。

 ザイチックたちの最初の研究では、いくつか実験をやっていまして、それをまとめると、何故か写真課題のほうが、せいぜい同等かちょっと難しい課題であるという結果を得ています。ザイチックは、心の表象がなぜ難しいかというと、それは「表象」だから難しいのか、心という独特の表象だから理解しにくいのかという問いを立てたとき、データはむしろ表象一般の理解の難しさを示した、と結論しています。カメラの中に残る表象は、それをどの程度日常生活の中で経験しているかにも関わるのですが、そもそも「表象」というのは何かで何かを表すことで、そのこと自体が難しいのであって、心の表象というものが特別に難しいものではない、という推論をザイチックはしているわけです。

 私は、物が場所を動かされて変わっているのか、その物自体が変えられたのかというのは、分けて考えたほうがいいだろうと思い、この条件をコントロールした追試実験を幼稚園でやってみました。ザイチックたちの一連の実験、それからリーカムとパーナーたちもやっていますし、レスリーとタイスたちもやっていますが、それを受けて私も2つの実験をやりました。写真課題と誤った信念課題とがあり、物自体が変わるのか、場所が変わるのかという条件がありました。それまでの研究では、必ずしも一貫してやられていないので、私がそれを一貫してやるようにしました。

<グラフ6>

 見ていただきたいのは、ここに先ほどの写真課題、ここに誤った信念課題の2つがありまして、3歳児、4歳児、5歳児の棒グラフが3本あります。データの細部はちょっとわかりにくいので、簡単に説明します。この写真課題と誤った信念課題の結果を較べると、統計的に差があるのは4歳の部分だけですが、少なくとも写真課題のほうが難しいという結果にはなっていません。どちらかというと写真課題のほうがやさしくて、心の表象課題、つまり誤った信念課題のほうが難しいというデータを得ています。

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 ザイチックたちは、写真課題のほうが難しいと言いました。リーカム、パーナーやレスリーたちは必ずしもそうではない、同等ぐらいであると言っています。私のデータは、研究で共通した年齢は4歳なので、4歳だけを比較しているのですが、どちらかというと誤った信念課題のほうが難しくて、写真課題のほうがやさしいという結果を得ています。

 まだ決着はついていないかもしれませんが、私自身は、表象自体が子どもたちにとって理解困難であるということは事実ですが、しかし、心の表象というのは、物の表象とは違った、いくつかの難しい点があるのではないか、と考えています。それは第一に、まず写真の表象の場合ですが、これは一度撮ってしまったら変化しません。劣化はするかもしれませんが、変化はしません。これに対し、心の表象というのは、いろいろと考えを変えたり、人から言われたりしてどんどん変わっていくものです。それから物の表象の場合は、ほとんどはフィードバックが可能です。つまり写真だったら、出来上がった写真を見ることによってフィードバックが可能ですが、心の表象というのはそういうフィードバックがきかないのです。

 つまり、他者の視点からあるものを見たらどう見えるかとか、他者の立場からあるものを考えたらどういうふうに思えるのかということを理解することの難しさの一つは、そういった他者視点からの見え方だとか、他者視点からの考え方というものを直接にフィードバックすることが困難であることからきています。

 私自身、ビデオを使い、他者の視点からのある物の見え方をフィードバックするという実験もやってみたのですが、フィードバックそのものがなかなか有効でないというデータが出ました。心の中身というのは、フィードバックがきかないのです。

 いまあげました一連の研究の中で、とくにレスリーとタイスたちは、物の表象と心の表象を理解する仕組みというのがどうなっているのかについて、4つぐらいの説明のオプションを考えました。

 1つ目のオプションは、物の表象を理解する処理機構と心の表象を処理する機構は同一であると考えます。2つ目は、心が理解できて、次に物にいきます。3つ目は、逆に物が先にできて、心が次に来ます。4つ目は、心と物とは独立であって、それぞれに理解されるための機構がある、と説明します。

 心の理解のほうが物の理解のほうよりも難しいと言うと、オプション3のように聞こえたかもしれませんが、実際にはオプション4に近いもの、つまりは物を理解するモジュールと心を理解するモジュールというのは別ではないかと考えるほうが、そしてそのそれぞれのモジュールの発達のスピードや順序性が違っているのだと理解するほうがよいのではないか、と思われます。

 いずれにしても、少々事柄を単純にしすぎているわけですが、強いてこの4つのモデルのどれが妥当かといえば、物の理解と心の理解は独立したモジュールであると考えるのが妥当ではないか、と私は考えています。

 それは、例えば、自閉症の子どもたちは、物に対してはだいぶ早い時期に、あるいは深いところまで関わっていけるのに、心という表象がなかなか理解できないということが、<心の理論>の研究データからも言えるのではないかと考えられるからです。

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 今申しましたように、自分の考えていることと人が考えていることとに違いがあること、ズレというのがわかってくる時期が、4歳から6歳にかけてであるとして、何故そんなことがわかってくるのだろうか、と考えていかなければいけないわけです。

 1つの説明としてパーナー、ラフマン、リーカムたちによる1994年の論文の中に、<心の理論>というものはきょうだいの間で感染性が強い(Theory of mind is contagious : you catch it from your sibs)というきょうだい間感染仮説、つまり、<心の理論>はきょうだいの中ではぐくまれていくのではないかという考え方が示されました。きょうだいからもらう、はしかのようなものが<心の理論>だと言っているわけですね。つまり、きょうだいがたくさんいるとその中でもまれていくことによってはぐくまれるという考え方で、これはイギリスで行われた研究です。

 スーザン・リーカムは純粋なイギリス人かもしれませんが、ジョゼフ・パーナーはオーストリア人で、テッド・ラフマンはアメリカ人。ですから、この研究は必ずしもイギリス的とは言えないのですが、イギリスというのはきょうだい仲を非常に大事にする文化だと思いますし、ドイツやアメリカでは個室を子ども部屋と考えるんですが、イギリスでは比較的大部屋、つまり子ども部屋を「子どもたちが一緒にいる部屋」と考えるという文化的な差があります。そのような文化的背景が関連しているかどうかは分かりませんが、いずれにしても元の研究ではきょうだいの多い子どもほど、先ほどの誤った信念課題の正解率が高いというデータを出しています。

 以前私の元に、この問題を研究する中国からきた留学生の大学院生がいました。中国は、ご承知のとおり一人っ子政策ですね、都市部では、晩婚を奨励して、子どもはほとんど一人だけという政策をずっととっています。そうすると一人っ子政策というものは心理学的に見て間違いないのかどうか、これはこの赤ちゃん学会でもよく議論になるテーマだと思いますが、一つの言い方として「一人っ子はそれ自体病気である」というひどい言い方があります。そういったことがほんとうなのかどうかといった議論につながると思います。それはともかく、私が指導した中国人留学生の修士論文では、きょうだい間感染仮説を支持するデータは得られませんでした。

 子どもたちにとっては、仮にかなり生得的に埋め込まれた機構であるとしても、それが発現していくためには、さまざまな社会的なインタラクションというものが必要になりますが、その際、きょうだい関係というものだけがインタラクションの場ではなくて、子どもたちはいろいろなインタラクションの場をもっています。きょうだいがいないと<心の理論>が十分に育たないのかどうかという意味で、きょうだい間感染仮説と言うのは本当なのだろうか、と私は疑問に思っています。

 これに関連して、ロバート・フルガムの『人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ』(河出書房)という非常にキャッチーな題の本があります。読んでみますと、フルガムという作家は、自分が人格形成をしていく過程で、幼稚園のときの仲間との葛藤、けんかをしたりとか、あるいは場合によっては助け合ったりとか、あるいは自分が約束を守らないと非常に手痛い目に会うというようなことから、多くのことを学んだそうです。

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 ですから、人生の知恵というのは、大学院という高等教育の場にあるのではなく、幼稚園の砂場、プレイグラウンドの中に埋まっているのではないかという、大変説得的なことをフルガムは言ったわけです。それで、私も、では幼稚園とか保育所で体験することは、子どもたちの心の理解の発達にどんなプラスの影響をもたらしているのだろうか、ということを調べようと思い、京都市内のある幼稚園で、3年間にわたって縦断的に観察する研究を行いました。

 この園は、モンテッソーリ法という教育メソッドに従っています。モンテッソーリ法は、教具で子ども自身が熱中して取り組むことを非常に大事にする方式です。他の条件としては、縦割り保育、つまり年少児・年中児・年長児が同じクラスで3年間を過ごすやり方をとります。これは、モンテッソーリ法と百パーセント重なっているわけではないのですが、モンテッソーリ法をとっている幼稚園では、縦割り保育も採用しているところが多いそうです。そういう幼稚園で3年間の間に子どもたちの心の理解がどのように変わっていくのだろうか、どういうプラスの影響をもってくるのだろうかということを調べました。つまりは、縦割り保育という一種の「擬似きょうだい体験」ですね、その効果を見たかったのです。

 1997年の7月から昨年の7月まで、3年間にわたり、私と当時大学院生であった2人と、毎週木曜日の午前中に幼稚園に行って、子どもたちの様子を観察しました。大体26人から27人ぐらいで1クラスが構成される普通の幼稚園ですが、担任の先生のほかに、3クラスに1人の割合で補助の先生がつくという、手厚く担当する体制になっていました。

 朝、子どもたちが集まってきて、棚にカバンをかけたり、服を着替えたりします。私たちは、そのまま1時間半から2時間ぐらい観察をしました。非常に素朴な方法ですが、子どもたちがいろいろな活動をしている様子を観察し、メモと音声で記録しました。教室のどこにいてもいいのですが、子どもたちが1人でお仕事や作業をする場合と、数名でやる場合と2通りがあります。

<写真7>

 これは、年少児はいろいろなことが自分ではできないので、年長児の「お世話係」の子が手伝ってあげる場面です。これはカラー・ペグです。いろいろなペグを穴に刺して並べていって、また最後にしまう、その時に色分けをしてしまうのですが、年少児はモタモタしてうまくできないので、年長児が手伝いに来ている、という場面です。

<写真8>

 あるいは子ども同士で遊ぶ状況があるのですが、そういうときに年長児になりますと、いろいろ配慮が出てきます。例えば、これは1から100までの数の板を順番に埋めていく作業(遊び)ですが、そのピースをみんなに分けてから始めます。やはり幼児なので、分け方が適当で、40枚ぐらいもらった子もいれば、3枚ぐらいしかもらってない子がいて、実際、次々とやれる子と出来ない子が出てきます。その時に、やっぱり年長の子はこれじゃ面白くないという配慮があり、もう一度ニューディール政策、すなわち配り直しをやるわけです。

<写真9>

 これは作業の中で一番難しい、毛糸編みですね。年長の最後の冬、1月から3月にかけて順番に毛糸のマフラーを編んでいきます。これは圧巻で、これをやっているとやはり、年少や年中の子たちは、「年長さんはすごいなあ」と思って、「自分も大きくなったらこれをやりたいな」と憧れて見ているような感じです。

 それから、このような観察と同時に、先ほどの誤った信念課題や発達検査の課題を個別で年に1回、6月頃に行いました。

 時間がなくなってきましたので、残りのところを急いで説明したいと思います。今、言いましたまとめは、私を含め3名で書きました『幼児が「心」に出会うとき――発達心理学から見た縦割り保育』(有斐閣選書)という本の中にエピソード的なことをまとめて示していますので、ご関心のある方は見ていただきたいと思います。

 その中の事例を一つだけ、ここで報告したいと思います。実際の名前とは違って仮名にしていますが、タケシ君とトシヒロ君という2人の男の子の3年間の変化です。毎日毎日行っているとわからないのですが、ある時点で過去の記録をまとめて、この2人の関係を見てみると大変面白いのです。子どもたちの間にも、やはり人間関係が出来上がっていることがわかります。タケシ君は、体がでかくて非常に俊敏できびきびとものごとのできる、けっこうハンサムな男の子です。それに対してトシヒロ君は体が小さくてモタモタしています。非常にかわいらしい男の子なのですが、自分が友達と比べていろいろなことができないことを、だんだん悟らされていきます。

 例えば、年少の10月にこういうことがありました。教育実習に来た山本先生という先生が2週間の実習を終えて帰るので、似顔絵をみんなで描きましょうと担任の先生が言われたのです。それで、トシヒロ君が山本先生の似顔絵を描いています。そこにタケシ君がやってきて、「何を描いてんの」といったら、「山本先生の顔」と答えます。すると、タケシ君は「そんなんと違うで。タコを描くんと違う」と言うのです。トシヒロ君が描いている人の顔が、タコだと決めつけました。さすがにムッとして、反論の言葉もないトシヒロ君。「目がないやんか」。「あるけど、まだ描いてへん」。それで、トシヒロ君が水色で描こうとすると、今度は「水色は目と違う」と言う。つまり、タケシ君は、目は水色で描いたらダメだと、一所懸命説教しているわけです。

 こんなことがずっと繰り返され、トシヒロ君はいろいろな形でタケシ君に対してコンプレックスが強まります。そのコンプレックスが、タケシ君当人がいないときに、私にボソボソと言う形で出てきます。「タケシ君が僕をバカにする」。私は「どうして? どうして、タケシ君が君を馬鹿にしていると思ったの?」と聞きました。これは普通に聞いたつもりだったのですが、信じてないと思われたのですね。トシヒロ君は「本当だよ」と怒ったように言いました。そして「僕が失敗したらニッと笑った」と言って、そのニッと笑った顔の真似をしました。「僕をバカにした」。「でも友達でしょう?」と聞いたら、そこは幼児らしく、「うん、昨日一緒にプールに行った」と言うのですね。

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 今度は、朝の「お集まり」の時間です。楕円形の白線が引いてあり、そこにみんな椅子を持ってきて輪になって集まる場面があります。その時にトシヒロ君は、はじめ小ぶりの椅子を持ってきたんです。ところが、置きかけて、大きい方と取り替えに行きました。「どうして小さい椅子だといけないの?」と聞いたら、「だってな、椅子が小さいと、タケシ君が、椅子も小さい背も小さいというもん」と答えたのです。

 それから、今度は年長の5月です。トシヒロ君は、割と朝早く親御さんに連れて来られるのですが、その日の朝、一人で地図の切り貼り作業をしていました。回りには誰もいませんでした。私がそばに行くと、一人言のように「タケシ君のほうが上手かなあ、なんちゃって」とつぶやいたのです。表象的な心の理解というのは、まさにこの場面に端的に現れます。つまり、本人はその場にいないんです。だけど、「もしも彼がいたらこんなことを言うだろう」とか、「もしも彼がいたらこうするだろう」ということを、常に意識します。そして、それがコンプレックスとして表現されるのです。

 これは、ある意味で非常に大事なことだと思うのです。つまり、人間というものは、他者を通して自分を理解するわけですから、自分を評価する他者というものを常に意識しているわけです。トシヒロ君は、ある意味で早熟なのかもしれません。一方、タケシ君のほうは、あまりそういうことに気がついていなくて、自分が言ったことが、他の子にどんなネガティブな影響を与えるかに全然関心をもたずにしゃべっている感じがどうもするわけです。トシヒロ君のように、幼児期の子どもでも、その場にいない友のことを常に心に抱いて、時にはその原因におびえることが「できる」のです。これは、私は一種の能力だと思うんですね。コンプレックスをもつことは、一つの能力だと言えます。

 今日の話の最初に、男の子一人と女の子一人が亡くなり、もう一人の女の子が重体になったという、駐車場での火災事件のことをお話しましたが、何年か前に、やはり男の子一人と、女の子一人が亡くなり、そして別の女の子が重傷を負うという大事件がありました。そのことについて、締めくくりでお話したいと思います。

 今、言いましたのは、みなさんご承知のように、神戸で起こった通称「酒鬼薔薇事件」という陰惨な事件のことです。14歳の不登校の中学生が障害をもった小学6年生の男の子を殺して、その子の首を自分が通っていた学校の校門にさらしました。あるいは、別の時期に、小学生の女の子の一人をかなづちで殴って、最終的には殺害したことになりました。もう一人の女の子には、ナイフで刺して重傷を負わせたという事件です。

 これは、社会的に非常に大きな衝撃を与えた事件ですが、この子がいったい何を考えていたのかを知ることは、非常に難しいと思います。こういう事件に関わっている子どもたちの内面というものを私たちが知る機会は、非常に少ないのです。たまたまこの事件は、社会的に話題になったこともあり、その検事調書が雑誌『文藝春秋』に掲載されました。少なくともそれを読む限り、他の情報はちょっとわからないので、まったく推測だけですし、間違っているかもしれませんが、やはり物の理解と心の理解というのは別のもので、心の理解を発達させることの難しさを感じたわけです。

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 検事調書を見ていきます。容疑者の少年は、小学生の女の子を、一人はハンマーで殴り、もう一人はナイフで刺しました。それを同じ日にやっています。その時のことを彼は、「今日、人間の壊れやすさについて聖なる実験を行いました」とこう書いているのです。人間の「壊れやすさ」であって、「死にやすさ」ではないんです。

 少年は、公園で手を洗う場所を案内してくれた女の子に「お礼を言いたいので、こっちを向いてください」と言って、ハンマーをふりおろしました。これは、非常に恐いことです。相手の目を見ながら叩くということは、普通ではなかなか考えられないことですね。むしろ後ろから叩くのが、こういう事件では普通ではないかと思うのです。それを、わざわざこちらを向かせて叩きました。そして、そのことについての論評は、「ゴキッていう音が聞こえました」という非常に即物的な表現でなされていました。それ以外にも何か思ったのかどうか知りませんが、少なくとも、調書にはそれしか書いていないのです。

 同じ日に、今度は別の小学生の女の子をナイフで刺しています。その時の様子です。「まるで粘土のようにズボズボッとナイフがめり込んでいきました」と書いてありますね。これも例えば、刺されたときの相手の子どもの痛がる様子とか、恐怖の様子がないのです。ちょうどナイフが粘土にささっていくようだった、とこう言ってるわけです。

 そして、事件から一週間ほど経って、女の子の一人が亡くなったことを、少年はお母さんから聞かされました。そのことに関する彼のコメントは、「頭をハンマーで殴った方は死に、おなかを刺した方は順調に回復していったそうです。人間というのは壊れやすいのか、壊れにくいのかわからなくなってきました」というものでした。

 いずれにしても、これは相手の感情も自分の感情もない、ないというか表現されてないわけです。何故こうなったのでしょうか。単に学校が悪いとか、教育が悪いとかではどうもすまないような面を、これから考えていかなくてはいけないのだろう、と私は思います。

 物を理解するプロセスと心を理解するプロセスというのはやはり違うのではないか、心を理解するプロセスというのはどんなものかということを、ここには心理学者の方もお医者さんの方もあるいはその他のいろいろな分野の方もいらっしゃると思いますので、さまざまな方法や素材を使って考えていきたいと思います。

(2001年4月22日、早稲田大学国際会議場での講演に加筆修正)



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